毎年、春に一度は作って食べたいな、という山菜料理がある。それは、フキの佃煮。
きゃらぶき(伽羅蕗)と呼ぶ料理らしい。フキの茎(正確には葉の柄)を、濃い茶色(伽羅色)に煮あげたもので、ワラビやゼンマイと比べてそんなに手間もかからないので、毎年一回は楽しむようにしている。
伽羅色ってあんまり聞いたことのない色だけど、日本の伝統色の一つなのだろうか。以下のようなページがあった。
伽羅色(きゃらいろ)とは?|伝統色のいろは
きゃらぶきにつかわれる山菜の「蕗(ふき)」には、2種類がある。一つは、いわゆるフキで、今時はスーパー等でも売られている。もう一つは、照葉樹の森林や海岸近くの林などに生育するツワブキ。
自分が毎年使うのは後者のツワブキの方。こちらは、スーパー等には売られていることは少なく、売られるとしても季節に地方の物産館等に並ぶ程度なので、基本自分で採集してくることになる。
夏緑性のフキと違い、常緑性のツワブキでは、採集時期にも新しい葉、古い葉が入り交じってほこっている。そのため、採集するときは葉を選ぶ必要がある。
葉が開ききっていない「新芽」という感じのものをとればいいんだけれど、それではなかなか効率が悪くなってしまう。そこである程度量が欲しいときは、葉の柄にまだ産毛が残っている程度のものまで採る。あとは、葉の部分は捨てて柄の部分にだけして持ち帰る。
塩をまぶして板ズリして水洗いすると、表面の産毛は取れてしまう。その後、3cmくらいの長さに手でおりながら皮をむく。一度さっと茹で溢したあと、だし汁でしばらくゆで、柔らかくなったら酒、醤油、砂糖を加えて味付けし、汁気がなくなるまで煮上げると出来上がり。
ことしは、二回作ることができたが、出来上がりの見栄えが全然違う。毎度、調味料目分量だからなぁ・・・
2018年5月26日土曜日
2018年5月2日水曜日
AI vs. 教科書が読めない子どもたち
以前からネット等で見かけて気になっていた本。たまたま立ち寄って本屋で平積みで売ってあったので、これは神様が買えと言ってる、と思って購入してきた。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」新井紀子著 東洋経済新報社
本の表紙には「AI」の文字が目立ち、コンピュータとかプログラム関連の本かなという印象を受ける。しかし、私が気になったのは中ぐらいの文字で書いてある「子どもたち」の方。しかもその語にはやや小さい文字ながら「教科書が読めない」が係っている。教科書を読めないほどの子がいるのか?それはどのくらい?自分の子どもたちと関係がある話なのか?と疑問が湧いた。
そう、じつはテクノロジー関係の本ではなく、教育関連の本と捉えて手にした。子どもが持ち帰ってくる学習プリントやテスト類、あるいは通信教育講座の結果を見ていると、いろいろな疑問が湧いてくる。
そんな疑問への答えを見つけ出すヒントがあるかもしれない。そう思って本を読み始めた。
本の前半は、主にAIについての解説。著者はAI技術の可能性と限界点をはっきりさせることを目的とした「ロボットは東大に入れるか」という人工知能プロジェクトを立ち上げ、AI技術で東大に合格することを目標に設定した「東ロボ君」開発を推進してきた数学者。その豊富な知識と経験に裏付けられるのだろう、理解しやすい文章で、ちまたにあふれているAIに対する誤解や思い込みを取払い、AI(AI技術、および真の意味でのAI)
について解説している。そして、そこを出発点にして、AI技術が発展することでどのような社会の変化があるかを述べている。
読んでいて自分でもAIについて誤解していた部分があったこともあり、とても楽しく読むことができた。誤解というのは「真の意味でのAI」がいつかそのうちできるだろうと思っていたこと。
話題が逸れるが、高校生の頃、生物の授業で神経の興奮や伝導・伝達を習ったあと、生物の先生が「思春期の君たちはいろいろ思い悩むこともあるだろうが、それを考える脳は神経の集りなので、その悩みも所詮電気のプラスとナイナスだ。悩みすぎるな。」という旨のことを言われて、衝撃だった覚えがある。
閑話休題
そんなこんなで、コンピュータが大規模になって、ソフトウェアが複雑化すればそのうち「真の意味のAI」見たいなのが生まれるんじゃ?くらいに思い込んでいた。そこのところをはっきりと否定、説明してくれているので本当に良かった。
さて、本の後半は「子どもたち」のこと。
本の前半でAIができること、できないこと(苦手なこと)を示した上で、人の社会、特に職業・仕事がどう変わるか、つまりどんな職業がAIにまかされるか、その結果、人はどのような職業を受け持つことになるのか、という未来予測から始まる。そして、その変化の中で、私たち人間は、AIができない(苦手な)仕事を本当にすることができるのか、という疑問がでてくる。その他にもいろいろ理由はあるようだが、著者は先述の人工知能プロジェクトの成果を基に、基礎的な読解力の調査をおこなう。
その結果やそこから見えるさまざまな現状や問題点が明らかになってくるさまは、かなり恐ろしく、どうにかしなければという気持ちになってくる。
さて、それで我が子の勉強にどう関わっていくかのヒントが得られたか。まあ、そこは読んだ人それぞれだろうから、書いてもしょうがないよね。
読んで良かった。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」新井紀子著 東洋経済新報社
本の表紙には「AI」の文字が目立ち、コンピュータとかプログラム関連の本かなという印象を受ける。しかし、私が気になったのは中ぐらいの文字で書いてある「子どもたち」の方。しかもその語にはやや小さい文字ながら「教科書が読めない」が係っている。教科書を読めないほどの子がいるのか?それはどのくらい?自分の子どもたちと関係がある話なのか?と疑問が湧いた。
そう、じつはテクノロジー関係の本ではなく、教育関連の本と捉えて手にした。子どもが持ち帰ってくる学習プリントやテスト類、あるいは通信教育講座の結果を見ていると、いろいろな疑問が湧いてくる。
- この間違いはの理由は何だ
- どの程度の理解を求めれば良いのか
- 答えを覚えさせれば良い問題か
- 原理や理屈をどのレベルで説明すればいいのか etc.
そんな疑問への答えを見つけ出すヒントがあるかもしれない。そう思って本を読み始めた。
本の前半は、主にAIについての解説。著者はAI技術の可能性と限界点をはっきりさせることを目的とした「ロボットは東大に入れるか」という人工知能プロジェクトを立ち上げ、AI技術で東大に合格することを目標に設定した「東ロボ君」開発を推進してきた数学者。その豊富な知識と経験に裏付けられるのだろう、理解しやすい文章で、ちまたにあふれているAIに対する誤解や思い込みを取払い、AI(AI技術、および真の意味でのAI)
について解説している。そして、そこを出発点にして、AI技術が発展することでどのような社会の変化があるかを述べている。
読んでいて自分でもAIについて誤解していた部分があったこともあり、とても楽しく読むことができた。誤解というのは「真の意味でのAI」がいつかそのうちできるだろうと思っていたこと。
話題が逸れるが、高校生の頃、生物の授業で神経の興奮や伝導・伝達を習ったあと、生物の先生が「思春期の君たちはいろいろ思い悩むこともあるだろうが、それを考える脳は神経の集りなので、その悩みも所詮電気のプラスとナイナスだ。悩みすぎるな。」という旨のことを言われて、衝撃だった覚えがある。
閑話休題
そんなこんなで、コンピュータが大規模になって、ソフトウェアが複雑化すればそのうち「真の意味のAI」見たいなのが生まれるんじゃ?くらいに思い込んでいた。そこのところをはっきりと否定、説明してくれているので本当に良かった。
さて、本の後半は「子どもたち」のこと。
本の前半でAIができること、できないこと(苦手なこと)を示した上で、人の社会、特に職業・仕事がどう変わるか、つまりどんな職業がAIにまかされるか、その結果、人はどのような職業を受け持つことになるのか、という未来予測から始まる。そして、その変化の中で、私たち人間は、AIができない(苦手な)仕事を本当にすることができるのか、という疑問がでてくる。その他にもいろいろ理由はあるようだが、著者は先述の人工知能プロジェクトの成果を基に、基礎的な読解力の調査をおこなう。
その結果やそこから見えるさまざまな現状や問題点が明らかになってくるさまは、かなり恐ろしく、どうにかしなければという気持ちになってくる。
さて、それで我が子の勉強にどう関わっていくかのヒントが得られたか。まあ、そこは読んだ人それぞれだろうから、書いてもしょうがないよね。
読んで良かった。
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