2011年6月25日土曜日

ちょっと理解できない

今朝気づいた記事

教員には合否通知せず 校長・教頭選考考査
http://kumanichi.com/news/local/main/20110625002.shtml

組織とか身分(階級?役職?)とかって本当に疎いから何とも分からないことが多いんだけど、なんか???


校長や教頭になるための試験(3次まで)があって、それに通ると候補者名簿に載って、その後人事で校長や教頭になったり(ならなかったり)するそうな。


で、受験者には学校の先生(記事では「現場の教員」)と県教委事務局の指導主事がいて、その対応が違っていたらしい。


現場の教員 指導主事
合否通知なし あり 
名簿登載期限 1年 なし 


単純に、同じ試験(だよね?)を受けて、合否の通知や候補者名簿に記載される期間が違うって何?とものすごく疑問。


教育委員会の説明がいくつか載っていた。
市町村の教育委員会からの指摘として「現場の教員が不合格だとやる気をなくす」って、それって教育指導主事も一緒なのではなかろうか? というか、人間誰しも、不合格を突きつけられたら、程度や期間の差こそあれ、やる気なくすんじゃないでしょうかね。


「名簿搭載者は勉強を続ける必要がなくなり、教育主事の仕事に専念してもらえる」・・・“名簿搭載者は勉強を続ける必要がなくなり、現場の教員の仕事に専念してもらえる”と言い換えても何も齟齬はない気がしますが・・・


指導主事と教員って立場が相当違うのでしょうか?
ちょっと知り合いの先生とかに聞いてみよう。




2011年6月29日 追記
指導主事って現場の先生とはずいぶんと仕事が違うようですね。
さまざまな研修をはじめ「先生の先生」といったお仕事で、いわば教育委員会の幹部候補生といったところ。現場の先生が比較的手が空く夏休みなどに、その「先生の先生」としての仕事が増えて多忙を極めるらしい。


前述の「名簿搭載者は勉強を続ける必要がなくなり、教育主事の仕事に専念してもらえる」というのはこの辺を意識してのことなのでしょうか。


が、結局、同じ試験をして結果や扱いが違う、というのはやはり不公平に感じてしまいますね。

2011年6月24日金曜日

保全へ生息地移転

今朝気づいたニュース

「保全へ生息地移転 県レッドデータ・ハッチョウトンボ 那須烏山」
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20110618/544303
下野新聞2011年6月19日

今回の震災で被害を被った学校給食センターの移転新築に際して、「建設予定地がハッチョウトンボの生息地だったので、捕まえて別のところに放して保全しますよー」ということらしい。

震災に関することなので、なんだか批判しにくいのだけど、そこはおいとく。食い物にもならない虫と子どもの生活、どっちが大事なんだよ!という批判は無しで。まずは保全の仕方について。

で、とりあえず、これは「保全」か?なんだか違和感あるなー。
生物の保全の方法については、生物種一つひとつを個別に守るのではなく、その生き物が生き延びる足場となる環境をワンセットで守るために生育・生息地全体を保全する、というのが最近の考え方だと思っていたのだが、これはいきなり環境から切り離しているなぁ。

ハッチョウトンボは栃木県のレッドデータでは絶滅危惧ではなく要注目種になっている(http://www.pref.tochigi.lg.jp/shizen/sonota/rdb/detail/18/0295.html)ことも、生息地自体を保全する必要はなし、という判断をくだした理由かなぁ。

関わった人のコメントに「かつていたような場所に」、「子どもの教育に役立てられれば」ということも書かれているが、なんだかそれにも違和感。

「かつていたような場所に定着させたい」というのは、保全の方策としてはありと思うけど、かなり最終手段的な方法ではないのか。復活の見通しが立たないとか、元の生息地がすでに壊滅的だとか、飼育・栽培の個体しか残っていないとかいう場合の方法じゃないかな。

「子どもの教育に」って何に役立つのか。「人間がなんかするのに邪魔だったけど、慈悲の心で他に移してあげたよ」と思わせるのは教育的に良いことか?記事の写真には子どもがトンボを捕っている様子が写っているが、子どもは関わらせるべきではなかったのではなかろうか。

話ははじめに戻るが、結局、虫と人の生活どちらが大事かという問題。栃木の被害がどの程度か知らないが(県のホームページ
http://www.pref.tochigi.lg.jp/kinkyu/higaihinan.html
を見てみた。栃木はそこまで壊滅的ではないんだな。よかったよかった)、子どもたちが安心して生活できるよう整備するのは大事なことだと思う。ただ、ここ湿地でしょ?ハッチョウトンボいるし。そんなところに建てるの?地震後大騒ぎしていた液状化とか問題じゃないのかな。

思うのは、これが保全のモデルケースにならないで欲しいということ。震災を前にして緊急避難的に行われたものである、という認識が必要だと思う。

2011年6月15日水曜日

親の「自分の時間」

先日、地元の新聞の読者投稿欄に、子どもを保育園に預ける時間について投稿があった。

記事の内容はそんなに覚えていないけど、「早く迎えにきて子どもと接する時間を作って」という意見と、それに対して「親に余裕がないと子どもに接する時に無理が生じる」みたいな意見だった、と思う。

前者の意見は、就学前児童にとって適切な集団行動の時間が6時間(いや4時間だったか?)であることをふまえての、子どものことを重視した意見だろう。一方、後者は、子どもを取り巻く環境のひとつとしての親を良い状態におき、良い生活環境を維持しようという意見なのかな。ネグレクトとか問題になってるし。

それを読んで、二年ほど前に同じようなことを息子の保育園の先生にいわれたことを思い出した。そのときはカチンと来たので、自分は後者の意見だ。

他の人がどういう子育てをしているか知らないが、うちでは、
・起きてすぐバタバタと準備、出発
・子どもを保育園に預けて出勤
・勤務が終わると同時に仕事場を飛び出す。
・途中寄り道もせず車の間を縫うように飛ばしてお迎えに行く。
・夕食、風呂、家事、寝る
という感じ。土日も基本的に子どもとともに子どものために生活するので、基本的に親の「自分の時間」はない。

だから、たまに入る平日の休みが実は楽しみ。何もせずに家でボーッとしていることもあれば、以前からしたかったことに手を付けたり。そこでリフレッシュしてまた頑張る訳だ。

人によっては、「親なんだから、そのぐらい当たり前」という考えで、上記のような生活に疲れを感じない人もいるだろう。ま、それは個人の価値観によるもので、一概におしつけらんないでしょう?

「もっと生活を見直して上手に生活をおくれる環境を作るべき」というひともいるかな。ごもっとも。でも、自分も含め、みんなそれぞれ頑張って、工夫してるんだと思う。とてもいい方法があるのならぜひとも情報発信してほしい。

今思うと、保育園の先生からは「休みの日に子どもをほっぽらかしてあそぶ親」にうつっていたのかな。

んじゃ、今日も頑張ろう。

対日世論調査で捕鯨を聞いたそうな

オーストリア 82%が日本の捕鯨に「反対」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110613-00000007-scn-int

まず、なんでオーストリア?
最初はオーストラリアと読み間違えて、「わざわざ反捕鯨国で反対意見しか出ないような質問するなよ」と思ったんだけど、オーストリア?捕鯨がらみでなんかあったっけ?

ちょっとググってみたら、日本捕鯨協会の
IWC条約を愚弄する輩
http://www.whaling.jp/yakara/yakara02.html
というページで「いかなる条件の下においても、捕鯨は認めない」国としてイタリアとともにあげられている。ガチガチの反捕鯨国だったんだな。


で、記事には反対理由とパーセントが出ている。
反対理由は「クジラが絶滅危惧種」、「違法だから」という認識不足と言うか事実誤認が目立つなあ。「捕鯨は必要ないから」は、余計なお世話だなぁ。あとにもどっかで聞いたような文言が並ぶ。


82%という数字もすごい。ここまで偏ることがあるのか。国民総出で反対なんだな。この状態はどうやってできたんだろう。活動家や政治家、メディアの地道な活動の成果なのだろうか、ここまで偏らせるって相当な気がする。むしろ怖いかも。


以上、感想。

2011年6月12日日曜日

キノコを採りに行ってきた

せっかくブログ作ったのにろくに上げないし・・・

先週の日曜日にきのこ採りにいってきた。

ま、食べるためではなくお勉強。地元のキノコの愛好会「熊本きのこ会」の例会に参加です。普段は植物か動物を見ているので、キノコを探すとなるとまた違う目がいる感じ。結構疲れた。

でも、驚いたのは、開催時間を通して会員のみなさんの学習意欲が高い状態で続いていること。午前中に各自採集し、お昼には帰着して昼食、その後採集して持ち寄ったキノコの同定会と学習会、という構成が、体力的に負担がなく集中力が持続している要因かも。また、昼過ぎには終わるので帰宅後に観察会の復習をしたり、標本を作ったりという知識を消化する時間が取れる。夕方早いので、時間的に別の要件を片付けることも出来るので、精神的な余裕がある。

そう思うのも、今まで参加した植物の観察会は一日かけて歩き回るもので、学習会は昼食後という構成で、標本作成や図鑑を調べるのは帰宅後になり、時間も体力も余裕がないと感じるためである。

「本当に好きなら・・・」などという理想論はおいといて、社会教育や生涯教育の一環、または自然科学の裾野をより広げる活動としての自然観察会を考えた場合、多くの人にとって参加や取り組みがしやすい構成にすることは必要だな、と感じた。