2011年9月21日水曜日

まあ、なんというか

「殺す」…クジラ漁の太地町漁協に脅迫状 刃物で「首」切断(msn産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110917/crm11091721170017-n1.htm

なんか、すごいな。
クジラのことでここまでできるなんて。いや、冷やかしやからかいかももしれんけど。

思うんだけど、自然や環境を守ろうって運動は、基本人間のためのものだとおもうんだよね。多分の話だけど、人間が頑張って環境を変動させたり自然を破壊したところで、地球上の生物の何割かが絶滅し人間が生存できない環境に変化することはあっても、すべての生物がいなくなることはないような気がする。人間がいなくなったら、またあらたな生態系が出来上がって、続いていくんじゃないかな。そう考えると、自然や環境を守る運動は、基本的に「人間が生存できる環境や自然を維持する」人間のための運動。

捕鯨の問題も同じで、反捕鯨はクジラを守ることで現在の海の生態系を維持し、人間の生存を支えてきた環境を維持しようという活動である、と解釈できる。つまり、クジラを守ることは目標であり、目的ではない。

目標と目的の違いって人によっていろいろ考えがあると思うけど、私は、目標は通過点やクリアすべきレベル、目的はやり遂げることによってなされる意味や意義ではないか、とおもっている。つまり、クジラを守ることは、人間が生存できる環境や自然を維持するという目的を達成するための通過点にすぎない。

で、クジラを守ることそのものが目的になってしまっていると、人に脅迫状を送りつけたり、ターゲットにむらがり「Killer(人殺し)!」という言葉を投げつけても、それを良いことと勘違いしてしまう。最近よく聞く「手段の目的化」とも似てるかな?

などといろいろ考えてみたが、活動の目的なんて活動主体によってさまざまだろうし、十把一絡げに言えないよねー、との思いがよぎった・・・