2011年12月28日水曜日

外来生物に対する認識


 最近、仕事上、外来生物について考えたり、調べたりする必要性に迫られている。本を読んだりすることも多いが、ネット上で外来生物についてどんな発言があがっているのかな〜なんて眺めてみることも多い。

 ここでは、それらをまとめてどうこう、ではなくちょっと気になった発言について。
教育関係の仕事の方のブログの発言だったんだけど(あえてリンクは貼りません)、
「地域の固有種が外来種によって被害をうけることには同情するけど、
 これまで外来種と出会わず、強くなれなかったことの方が不幸なのでは」
という主旨の発言があった。そのあと、固有種と甘やかされて育った子どもを重ね合わせて教育論に発展する訳なんだけど。

 教育論については置いといて、外来生物についての捉え方にちょっとびっくり。生物にあまりなじみのない人はこういう考え方をするのか、と。

(何のプランもなく書き始めたのでグダグダだな・・・)

 もしかして、多くの人にとって「自然はひとつ」なのだろうか。今は地域の違いがあるけれど、将来必ず収束する理想的な完全な自然像のようなものがひとつだけ。だから、捕食をするような外敵や死に至るような病をもたらす病原菌がいない自然は不完全で、いつかはそれらがそろった完全(?)な自然の姿になるはずだ、と感じているのか?

 確かに学校では、生態系とか食物網とかいって、よそ者が入る余地のない理想的な生物同士の相関関係をみせて授業するからなー。「捕食者いない?おかしいじゃん!!」となるのかも。

 自然の仕組みに対する理解は進んでいるが、個体、個体群、分類群、生態系、地域、さまざまなレベルと範囲での固有性に対する理解が追いついていない状態なのか。人間の個性は異常に大事にするのに(毒)。

 あと、「自然では起きないこと」の重大性が理解できていないのかも(これは自分についても)と感じる。自然ではいなかった捕食者が、ある時突然大量に入り込む、あるいは短時間に一気に増える、というのは相当な衝撃だろう。それに対して、「備えができていない」、「弱い」といわれるのは理不尽だろう。

 なんかいい例えがないかなー。突然おきるあり得ない事象・・・
「明日、大地がすべてなくなる」とか。
で、宇宙人から
  「えーなんでえら呼吸残しとかなかったのー?」
  「ひれ作っとかなきゃサメから逃げられないじゃん」
  「そんなひよひよの皮膚じゃ水分とられぱなしだよー」
とかいわれて、最後には
  「地上で余裕があるときに準備しとかなきゃー」
  「しょせん弱い生き物だったんだよ」
  「絶滅してもしょうがないね」
と言われる、と。
 
 うん、むかつく、じゃなくて。
 生物って基本的に、今ない状況には対応(すなわち進化)できないんだと思う。捕食者がいない環境で進化した場合、捕食者に対する対応は進化しない。私たち人間も水中で暮らす必然性はないから、ヒトとして分化した後にあえて作ったりはしていない。その結果に幸不幸とか、弱い強いという考え方は存在しない。それが進化の道筋で、そこに先にあげた固有性がある。

 という訳で、固有性の重要性を一人再確認したので終了、あとは仕事(はぁと)。

2011年11月24日木曜日

里山利用の捉え方

少し前だが、鉄腕DASHを見てた。
マツタケのとれる里山に戻そうと頑張ってた。
http://www.ntv.co.jp/dash/tetsuwan_new/past/2011/1030/01/01.html

キノコのことはあまり知らないので、マツタケの出る里山ってこんなものなのか、と興味深く視た。やっていた作業は、

  • 光が入るように広葉樹などの木を切る。
  • 地面の表面の落ち葉・腐葉土を取り除く。

など。なかなか大変そうな作業で、作業後の状態を以前は常に保っていたと考えると、「すごいな」と感心してしまう。

これみてて思ったこと。
テレビやwebでは「里山の整備」や「人が手をかける」と表現していたが、自分はちょっと捉え方が違うと感じた。

「広葉樹を切る」というのは、かつては焚き物、道具の材料、炭の材料等として利用するために行っていた行為で、結果として森に光が入り、マツタケの好む環境になったのではないか。
「地面の落ち葉を除く」というのも、かつてはその落ち葉を、焚き付けや畑の肥料に利用するという行為。その結果、地面の栄養分が減って痩せた土となり、マツタケの好む環境になったのではないか。
つまり、マツタケは、人間が日常生活や農業等のために利用できるものを可能な限り山から持ち出し、使って使って使い倒して、やせこけた環境にでるキノコなのだろう。

以前聞いた講演で、「里地里山は使い倒した環境」という言葉を聞いていたが、このマツタケの話をみてかなり納得した。

里地里山は、「人が手を入れ整備し続けた環境」ともいえるが、「人が限界まで使い倒したギリギリの環境」と捉えることもできる。

2011年11月22日火曜日

人によってこんなに違うものか(死について)

先日知り合いに「死ぬのはこわくないか」と聞かれた。

 なんでもその人は幼い頃病気がちで、調子が悪くなるたびに、自分が死んでいなくなっても世界が普通に続くことが腹立たしく、悔しく感じて、「死んでたまるか」と思ったそうだ。それは今でも続いていて、自分が何か見失いそうになった時には「自分が明日死ぬかも」と想像し、「何か生きている証を残さねば」と心を奮い立たせるそうだ。

 twitterにスティーブ・ジョブズ氏の言葉を定期的につぶやくbotがあるが、
https://twitter.com/#!/SteveJobs_BOT
そこでも似たような言葉が流れる。
「自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。」
「自分もいつかは死ぬ。それを思い出すことは、失うものなど何もないということを気づかせてくれる最善の方法です」
「『もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?』。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。」
対して自分は・・・?
 実は、「しょうがない」と思ってしまう。感覚としては、死って突然くるものだと感じている 。ちょっとした判断ミス、油断、理不尽で、判断する間もなく突然に。だから、あらがえないし、しょうがない。なんでそう思うかなぁ。疲れてるのかな。高校生の頃に交通事故にあって、「あ、死ぬ時ってこんなにあっさりくるんだ」と感じた覚えがある。まあ、たいした事故ではなかったんだけど。

 いずれにせよ、もう少し生に執着して、ガッツリ生きたがいいよなぁ。よし、やりたいことを、もっと一杯探そう!!

2011年10月27日木曜日

冬といえば甘酒

なんだか最近料理ブログみたくなってるな。

甘酒って昔は夏の季語だったらしいけど、今ではすっかり冬の風物詩。今季初めての甘酒をつくった。

以前、新聞に載ってた作り方。
一合のもち米と三合の水でお粥を炊いて、60度くらいになったら米こうじを加える。ふたの閉まる容器に入れてふたをしたら、カイロを三個ほど貼り付け、小さめの毛布でグルグル巻きにしたら、抱いて寝る。暖かいので風邪ひいてるときなんかはいい。発酵時間は8時間ほど。

まあまあ、上手くできた。


2011年10月26日水曜日

味噌天神祭

 昨日はたまたま休みだったので、熊本市にある味噌天神(本村神社)のお祭りに行ってきた。

味噌天神(本村神社)

 熊本市大江本町にある天神様で日本で唯一の味噌の神様だそうです。この神社の始まりは疫病平癒を願って立てられた「御祖(みそ)神社」で、その後、味噌神社と呼ばれるようになったそう。この近くに肥後国分寺の味噌蔵があったのだが、ある年その味噌がうまくできなかった(腐敗して酸っぱくなった)。そのとき、「御祖(みそ)神社」にお祈りしたところ、「味噌桶に境内の小笹をたてよ」とお告げがあり、その通りにしたらおいしい味噌になったそうだ。そこから、味噌の神様ということで味噌天神と呼ばれるようになったらしい。

で、その「小笹」というのがこれ。この日は小枝を縁起物として配っていた。
味噌天神の「小笹」これで味噌がなおったらしい。
このタケ、何だろう?

神事が執り行われた。聞いたことのない言葉が多い・・・
かいひ(開扉)、けんせん(献饌?)、のりと(祝詞)、かぐら(神楽)、たまぐしほうてん(玉串奉奠?)、てっせん(撤饌)、へいひ(閉扉)

神楽

このお祭りでは、例年味噌の無料配布が行われているらしい。今年度は、事前にアンケート用紙を配り、それと引き換えての無料配布。ちょっと早めにいったので、行列にならんでアンケート用紙をもらうことができた。
もらったお味噌1kg。銘柄は選べなかった。
みそ汁やダゴ汁の振る舞い(というのかな)もあった。面白かった。来年もいこうかな。

2011年10月22日土曜日

季節の食べ物 オニグルミその2

胡桃餅というか、胡桃求肥を作ってみた。

オニグルミのむき身は170度に余熱したオーブンで軽くやく。

白玉粉と等量の水を鍋に入れて火にかけて練り、好みの甘さに砂糖を加えさらに練る。

クルミが少なかったので、半量はそのままきな粉をまぶした。残りの半量にオニグルミを加えて片栗粉をまぶした。

四歳の息子は、クルミの方を気に入った。やはり、自分で拾ったからかな?


2011年10月21日金曜日

季節の食べ物

先日、次男と近くの山にオニグルミを拾いにいった。結構大きな実なので拾うのが楽しかった様子。

現地で石で叩いて果肉を取り、帰ってからは洗って炒ってこじ開けて中身を取り出した。クルミは食べるまでが一苦労。

取り出したオニグルミといりこをフライパンで空炒りして一旦取り出す。フライパンに砂糖、醤油、赤酒を入れて加熱してアメ化し、さっき炒ったオニグルミといりこに絡める。

ちょっと醤油辛くなったけど、こどもたちは喜んで食べてくれた。


2011年10月7日金曜日

スティーヴ・ジョブズ氏、亡くなる。

Appleの元CEOスティーヴ・ジョブズ氏が亡くなりましたね。

macを使い始めたのは大学生の頃。研究室の先生がmacを使っていて、研究室にもmacが置いてありました。当時生物学系の研究室ではmacを使う人がとても多かった。

そんな訳で、始めてまともに使ったパソコンがmac。OSは7.いくつとか、日本語入力は漢字Talkとか、そんな時代。よく動かなることもあった。でも、研究そっちのけでパソコンやネットやメールのやり取りに夢中になっていました。

卒業後、仕事などでWinのパソコンを使うことはあったけど、いくら使ってもしっくりこなかった。だから自宅は常にMac。何より使いやすいと思う。インターフェイスの設計とかがいいのだろうか。個人的にはmacにとても愛着がある。最近はiPhoneやiPadといった革新的な製品で世界を魅了した(残念ながら、諸事情により購入できていませんが)。macを通して、スティーヴ・ジョブズ氏はすごいなぁ、と思うようになった。

スティーヴ・ジョブズ氏についてすごいとおもう点は、あの発想力。誰にも思いつかないような、でもそれを知ると誰もが驚き、そして受け入れたいと思わせる発想が、形となって出てくる。

正直、その発想力が欲しい。スティーヴ・ジョブズ氏がいつまでもいて、その発想力の恩恵に浴しておけばいい、必要になったら発想方法をまねればいい、とどこかで安易に考えていたのだと思う。でも、自然の流れとして、彼は突然いなくなった。

欲しければ自分で磨くしかない。私は何を作り出せるのだろう。


スティーヴ・ジョブズ氏の御冥福をお祈りします。

2011年10月5日水曜日

捕鯨は文化?

捕鯨は日本の文化だ!、イヤそうじゃない!みたいな論争があるみたい。

「日本の文化ではない」論のひとつに、「限られた地域の文化(風習)にすぎない」というのをよく聞く。なんか違和感。近所のスーパーや魚屋にはクジラの刺身とかよく置いてあるし、それがなくともオバイケは常備、という感じ。それは、日本の文化ではないわけか。なにか「日本の文化」という枠があって、それからはみ出すものは日本の文化ではない、という考え方かな。日本語は標準語のみ、方言はなくなるべき、みたいな感じかな。 

 文化って時代や地域による多様性があるもので、そこに価値と面白さがあるとおもうよ。
秘密のケンミンSHOWなんて、まさにその面白さを取り上げたものでしょう。地域に限られたものだから日本の文化の範疇に入れるな、的な態度はどうかなー?

 もうひとつは、『伝統』文化ではない、というもの。一度途絶えたとか、近代捕鯨だとかあるし、漁具や漁法の技術は継承されていないかもしれないし。だから、「伝統」という意味では確かに薄くなっているのかも知れない。ただ、「連綿と続く由緒正しい伝統」とは言えない部分をもって、「日本の文化ではない」としている空気もある気がする。

 歴史あるものだけが文化なのかな。今の文化は大事にしなくていいのかな。今という時間は、まさに文化を作っている瞬間。クジラをとり、クジラを食べ、そのことを生活の一部とする社会がある限り、それは文化であって、これから伝統を作っていくのではないかな。

 つまり捕鯨は、日本の文化の一部だと思う。

 「日本の文化」といったとき、いったい何を指すんでしょうね。

2011年10月3日月曜日

物思う秋

めっきり秋らしくなってきた。
だからかな、昔のことを思い出す。別にいいことは思い出さないけどね〜

この前思い出したのは中2のころのこと
突然先生に「お前は入学当初の輝きを、どんどん失っている!」と言われた。

今思うと、思春期の危うさなのか、小学校高学年の頃からか多少人間不信だった気がする。が、中学に入って友達と話すのが楽しくて学校を楽しみたいと思うようになってきた。でも元来真面目な性格で、勉強も手を抜いたらいかんな、と頑張っているつもりだった。そんな頃に上記の言葉である。はっきり言ってショックでしたよ。何より心当たりがない。幼心(?)に遊んじゃいけないんだ、と思った記憶がある。

以来、勉強を頑張ったり、生徒会長をしたりと、今思えば不似合いなことにせいを出してたな、と思う。というか、やりたいことを抑えて、やったほうがいいと思われることを優先する生き方に進路を変えたのではないか、という気がする。

あの時、先生はどんな意図があってああいうことを言ったのかな?未だに分からなくて、引っかかる。

人間不信と言えば、大学の頃に指導教官に「少しは俺を信じろ」と言われたことを思い出した。これを書いていて、中学校からの続きなのかな、と感じた。

妻に話すと、最近は「大学の頃の頑さがなくなった」とそうだ。人を信じているような感じが少し出てきているらしい。そんな頑な人間と付き合い、結婚し、かつ、いい方向に行くよう付き添ってくれていた。ありがたいもんだ、としみじみ感じた。

秋のせいかなぁ・・・

珍しくいろいろ考えたので、覚え書き

  • やりたいことを一番にやる人生にしよう
  • 人を信じよう


2011年10月2日日曜日

資源ゴミ

朝、新聞紙とか空き缶とかの資源ゴミを出すと、あっという間に誰かが持って行っちゃう。見張ってんのかなぁ・・・

あれ、ムカァ!!ってくる。収集日にあわせて出してんのに、なんで他の人が持って行くのよ。しかもそれを換金すると思うとなおさら。私がいる自治体も資源ゴミ持ち去りを禁じる条例作ったみたいだけど、生活のかかっている人は取り締まらないだとか、悪質なものだけ取り締まるとか、なんだか恣意的ともとれる。

条例や訴訟にについてはいろいろネットにあがっていて、いろんな理屈があるみたい。だけど、ゴミを出す側からすると、自治体の収集に対して出してんのに、赤の他人が持って行くという筋の通らなさが苛つく原因な気がする。

自治体の回収は、自治体が業者に委託して行っているみたい。つまり税金が使われている。その業者が回収して回る範囲を、個人(もしくは別の業者)も回収して回っている。そこが無駄に思える。持ち去りの人たちが、きっちり持ち去ってくれたらそこ回る必要がなかったり、ゴミが減ったりで、自治体の出す委託料が減らせるんじゃなかろうか。そういえば資源ゴミの売却益は自治体に入るのか?委託料もらって売却益ももらったら委託業者丸儲けだな。ある程度自治体に入っている(pdfです)みたいだな。

と、ここまで考えて、以前は廃品回収業者みたいなのがあったなぁ、と思い出した。トラックで「古新聞〜古雑誌〜ボロ〜チラシやカタログなど〜ご不要なものがございましたら〜」とかいいながら回ってたやつ。あ、ちり紙交換って言ってた。もらえるちり紙が少ないって不満はあったが、対価が得られてリサイクルにも貢献、委託料とかいって税金を使うこともないってことで、かなりいいシステムだったと思う。あれ、なんでなくなったんだろ。やはり採算があわないのかしら。でもそれなら、なぜ持ち去りがある?

委託じゃなく登録制にできないかな。回収物や量、収集範囲で定めた年間登録料を払ってもらったほうが、出費を抑えられるんじゃ?とか、素人考えだけどね。

2011年9月21日水曜日

まあ、なんというか

「殺す」…クジラ漁の太地町漁協に脅迫状 刃物で「首」切断(msn産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110917/crm11091721170017-n1.htm

なんか、すごいな。
クジラのことでここまでできるなんて。いや、冷やかしやからかいかももしれんけど。

思うんだけど、自然や環境を守ろうって運動は、基本人間のためのものだとおもうんだよね。多分の話だけど、人間が頑張って環境を変動させたり自然を破壊したところで、地球上の生物の何割かが絶滅し人間が生存できない環境に変化することはあっても、すべての生物がいなくなることはないような気がする。人間がいなくなったら、またあらたな生態系が出来上がって、続いていくんじゃないかな。そう考えると、自然や環境を守る運動は、基本的に「人間が生存できる環境や自然を維持する」人間のための運動。

捕鯨の問題も同じで、反捕鯨はクジラを守ることで現在の海の生態系を維持し、人間の生存を支えてきた環境を維持しようという活動である、と解釈できる。つまり、クジラを守ることは目標であり、目的ではない。

目標と目的の違いって人によっていろいろ考えがあると思うけど、私は、目標は通過点やクリアすべきレベル、目的はやり遂げることによってなされる意味や意義ではないか、とおもっている。つまり、クジラを守ることは、人間が生存できる環境や自然を維持するという目的を達成するための通過点にすぎない。

で、クジラを守ることそのものが目的になってしまっていると、人に脅迫状を送りつけたり、ターゲットにむらがり「Killer(人殺し)!」という言葉を投げつけても、それを良いことと勘違いしてしまう。最近よく聞く「手段の目的化」とも似てるかな?

などといろいろ考えてみたが、活動の目的なんて活動主体によってさまざまだろうし、十把一絡げに言えないよねー、との思いがよぎった・・・

2011年9月16日金曜日

相手は話を聞く気があるのか(捕鯨)

捕鯨の問題には多少とも興味があり、ニュース等は読むようにしている。興味を持ち始めた頃には、いろいろ調べてどっちが正しいのか、どうあるべきか、どう折り合いを付けたら良いか、落としどころはどこか、などいろいろ考えた。

が、昨年から話題となった、映画や太地町でのことを新聞やテレビで見てから、何か考えがかったというか、捉え方がかわったというか。

以前からいろんな人が指摘していたことだが、「反捕鯨の人たちって本気で反捕鯨じゃないんだなぁ」と思うようになってきた。

毎日新聞の毎日jpに「特集ワイド:イルカ漁解禁の太地町ルポ 捕鯨は文化か蛮行か」という記事があった。反捕鯨の人の話がいろいろ書いてあった。イルカを守る活動を始めた同期等も書かれていた。でも、どれも空々しく感じちゃうんだよねぇ。「反捕鯨で」はなく、反捕鯨「活動」に熱心なひと、にみえてしまう。

賛成であれ反対であれ、捕鯨やクジラ、イルカそのものについて本気じゃない人といくら話しても意味ないんじゃない?と感じてしまう。話し合うとか、相互理解だとか、国際理解だとかは確かに大事だけど、相手の価値観がそこにはないので、こちらの思いすら相手にいいように利用されてしまっている。

少し前に、「和歌山・太地町で警察等が警備訓練」というニュースが流れたが、いいんじゃないかな。単純に、不法行為は取り締まる、という姿勢で。相手にいいように利用される状況を少しでも減らしたほうがいい。


2011年9月15日木曜日

家の雰囲気

最近家の中で大声が飛び交う。一番大きいのは自分だが・・・

なんだかね、家の中の雰囲気がイライラしていると言うか、なにせみんな怒りやすい。一人がカー!っとくるとそれが伝染する感じ。

とりあえず思いつくことは、自分がイライラ伝染のスターターにならないこと、そして自分がイライラ伝染のストッパーになること。対症療法だな。

その次、なんでそんなに雰囲気が悪いのか。根本治療。まあ、察しはついている・・・

2011年9月14日水曜日

MS Access

博物資料の管理にAccessを使っている。というか、Accessを使うことになっている。

で、職場内で小さなイントラネットというのだろうか、数台のパソコンをLANで繋ぎ、サーバ機と呼んでいるちょっと性能がいいパソコンにデータが集約されている。

で、植物資料については、ひとつのAccessファイルに大元のデータ(テーブル)が保存されていて、必要に応じてそのデータを呼び出してつかう。

例えば、登録には登録のためのAccessファイルを作って、大元のデータをリンクによって読み込み、クエリ、フォーム、レポートに利用している。

が、これが激重。自分で組んだので誰にも文句いえないのだが、重い。反応が鈍い。どーしたもんか。

Accessってホントに我流で使っているので(まあ、他のソフトでも我流だが)、何とも解決策を見いだせないでいる。

うーん。春に通った熊本市職業訓練センターのAccess講座の実用コースにいって見ようかなぁ。でも高い

2011年9月12日月曜日

思うこと

昨日は観察会の講師をしてきた。

こういう仕事をすると、毎回毎回「実力不足だなぁ」と感じる。今回もそう感じた理由のひとつは、完全に守備範囲外であるキノコ類が大量発生していて、キノコ観察会にならざるをえなかったこと。

枯れ草を持ち上げてたつたくさんのキノコ


でも、観察会の講師をやるくらいなら、基礎的な知識は絶対必要だよね、と感じた。詳しいことは分からなくとも、キノコの生活とか、見分けに使われる観察のポイントとか、キノコに興味を持ってもらう話題とか何でも良いんだし。機転を利かせて、たのしい実のある時間を提供しないとね。

2011年9月9日金曜日

職場体験

最近、いろいろなお店などで中学生を見るようになった。毎年この時期になると、「職場体験」といって中学生が地元のお店などで数日間仕事を体験しているようだ。

この職場体験をしている中学生たちが、みんなして体操服を着ている。その格好に違和感があると新聞の投書欄に載っていた。自分もしっくりこないなと思っていたが、やはりそう思う人がほかにもいるんだな。

体操服の子どもがコンビニの棚の商品を並べてたり、半端に接客されても、とりあえずはサボリ?イタズラ?と勘ぐってしまう。妻は先日、店の裏でダンボール潰してるところを見たそうだ。まあ、ぱっと見、「体育がイヤで学校抜け出した中学生が、ストレス発散にダンボール踏みつぶしてる」図だよなぁ。仮にも職場で働いているのだから、どう考えても「中学生の格好」はないでしょ。

見た感じの他にも、中学生本人の意識にもあまり良い影響はない気がする。どんなに「職場体験」と銘打ってても、中学校で着ている体育服や制服を着ていたら、意識は学校の延長ではないかなぁ。

中学校の格好をさせるのは、やっぱり学校側の取り決めなのかな?でも、職業を体験させるのなら、職場の流儀に従わなきゃ「体験」になりづらいのではなかろうか。

2011年9月7日水曜日

スマホにした

Galaxy S II

なんか多機能すぎて理解に時間がかかる。
でも、面白くなってきた。

とりあえずスケジュール管理にジョルテを入れ、ToDo管理にはTaskos。
さらにgoogleアカウントと同期しようとしているからか、なんだか連携がわるい。

ジョルテのToDoがしっくりこなかったからTaskos入れたんだけど、同じ機能のアプリが重なって入っている感じが、しっくりこない。

う〜ん

2011年8月31日水曜日

佐賀県立宇宙科学館にいってきた

恐竜展があっていました


恐竜展があっていたので子どもが喜ぶかなーとおもって。すごい人出だった。

感想
やっぱ、お金があるっていいよねぇ。っていきなり下世話だ。
 1階:企画展示室、ワークショップ室、科学体験コーナー
 2階:科学体験コーナー
 3階:宇宙にかんする展示コーナー
最後に危うく回り忘れるところだったが
 地下1階:佐賀の自然

施設が大きく、内装や体験施設も充実している。これだけハードがそろって活動のベースが整っているというのは魅力的。

個人的には、体験コーナーは好きではないが、子どもたちは夢中になっている。ただあそんでいるだけにしか見えないんだが、その中から身の回りのフシギに科学的な視点から疑問を持つ子たちが育つのだろう。

やはり好きなのは、地下1階の自然のコーナー。地下の洞窟のような通路があしつらえてあったり、水槽あり、ジオラマあり、佐賀県の自然の概要が分かりやすく解説してあった。ただ、うっかり順路と逆に回ってしまって、ちょっと理解に苦労したけど、それはこっちの責任。

地域博物館として重要なのは、この自然の分野だよな。と再確認。

博物館における生涯学習

職場に出入りしているボランティアさんに、現在のボランティア活動(主に資料整理)についての意見を聞く機会を得た。

で、いろいろ考えさせられた。認識の隔たりがあったと言うか。

博物館の生涯学習は、専門的で、体系的で、それなりの成果を出せないといけないと思っていた。

でも、参加者はそこにフォーカスしていなかった。基本的に、新しいことを知る、発見することに素直に驚き、自分の視界や世界が広がることに大きな喜びを感じているようだ。

よく考えたら、学ぶ基本はそこ。驚いて楽しむこと。今から学者になる訳じゃないので、堅苦しくある必要もないし、学校の授業や講義のように体系的で枠にはまって、発展的である必然性は何もない訳だ。

いろいろ考え直さなきゃなー

2011年8月30日火曜日

島田美術館「おくゆかし種のせかい」

島田美術館で開催されていた特別展「おくゆかし種のせかい」にいってきた。展示期間終了間際の滑り込みで見てきた。

「おくゆかしき種のせかい」展示風景
白をベースにした会場に、ゆったりと種子が展示してある。植物の種子を題材にしているけど、学問(植物学)からではなく美術からのアプローチと言った展示。天井に貼った半透明の布の上に置かれた種は、頭上から降るように舞い落ちる種をイメージしたものか?壁面にはった糸や針金に間隔を置いて固定された種は、大気中をおよぐシーンの連続写真か?

展示台での展示。ごく小さな紙に植物の名前が書いてあるだけ。 

ひとつの展示台にさまざまな形の種子が並べられていて、この種はどうやって運ばれるのか、こんな固いのがどうやって発芽するのか、いろいろと疑問や想像が膨らむ。

今まで自分がイメージしてきた「説明する展示」とは全然違うアップローチによる構成は勉強になった。

オーズ終わっちゃった

仮面ライダーオーズ、気に入ってたんだが。

話はまあ、巧く終結したと思う。いつぞやのライダーみたいに、最終回で「つづきは映画館で」じゃなかったので、それだけで満足。

もう少し、丁寧にやっても良かったんじゃないかとも思ったんだか。1000回記念やってたせいで時間足りなくなったんじゃ?と勘ぐり。

なかなかいい終わり方でした。

2011年8月26日金曜日

コンデジマスターに向けて・・・

先日のお仕事は、講座の運営(というかその補助)

内容は写真家の先生をお呼びしてのネイチャーフォト講座。
講師の先生は、動物カメラマンの津田堅之介さんです。
ブログ:ボクは動物カメラマン!津田堅之介「撮影日記・裏話」

講座の内容は職場のブログにアップした
http://matsubasemuseum.otemo-yan.net/e522662.html

で、その中で講座参加者が撮影した写真を津田さんが講評する部分があって、スタッフも便乗しました。

で、私の写真はこれ。
アソノコギリソウ。南阿蘇国民休暇村野草園にて。
講評は
「露出がたりない」
露出の調整は前から探してるけどみつからないよ〜、と返事したら
「取扱説明書を読んで、ちゃんとカメラの機能を把握して」
と厳しいお言葉。

で、ネットで検索してみたら出てきた。いや〜取説読んでみるもんだね。
でも、くだんの露出調整だが、menu項目になく、全然別のボタンに割り当てされてる。
なぜ、menu項目に一括しない?よく使うボタンを別にするのは分かるけど、それとは別に設定項目は一括にしておかないと。感覚的に扱えないじゃん。

昔の機械では、機能の調節はそれを司る機構を操作するためその部分にスイッチを置くしかなかったけど、いまはデジタルの時代なんだし、UDなんて騒がれてるんだしさー、ユーザインターフェイスというものをさー、とブチブチブチ・・・言い訳したりして。

ともかく一歩前進したぜ。

津田さんありがとうございました。

こ、これはもしや

以前から採ってみたいと思っていたやつでは?
まん中のちっこい粒が虫
 あっぷするとこんな感じ。
アップ、というよりトリミングしただけ。

こっちは赤いぞ
指先の赤茶色い点が虫
 こちらもアップ!
こちらもトリミングでズームアップもどき。

ワクワク。
あ、家に図鑑ないや。
展翅はどうすんだ?
わたわた。

2011年8月25日木曜日

深度合成写真(多焦点画像)ふたたび

顕微鏡の掃除とデジカメ操作の確認をして再挑戦
深度合成写真、二度目の挑戦


  • 脚が縦になっているところがダメだ。やはりある程度平面に広がってないとクリアにならない。
  • 台紙が邪魔。
ということで、次回は標本を新たに作って、台紙に貼る前に撮影するとしよう。

2011年8月24日水曜日

深度合成写真(多焦点画像)に挑戦

twitter上で深度合成写真(多焦点画像)なるものを知った。
昆虫などをアップで撮ると、焦点深度より昆虫の厚みの方がまさるため、どうしてもどこかがボケた写真になる。そこで、別々の場所にピントを合わせたいくつかの写真を合成して、全体にピントがあった写真を作ってしまおうというのが「深度合成写真」または「多焦点画像」というらしい。

最近アリを集めているので、試してみた。
まず撮影装置は実体顕微鏡andデジカメ。どちらも多少古いがそこまで悪いものではない。職場であまり使われず埋もれていた。
普通に撮影したもの
まあ、心配していた通り汚れがひどい。なんだか顕微鏡の内部にホコリが入っている模様。あと、ミクロメーターが入っているんだけど、どこに入っているのか分かんなかった・・・

それはともかく、写真をみてみるとアリの背中にはピントが合っているが、脚とか触覚とか腹部の先とかがピントが合っていない。これをなんとかしようというお話。

で、参考にしたのは以下のページ。
「Image Jを用いた多焦点画像作製」
http://www.frontier.kyoto-u.ac.jp/rc03/omake/focused.html
京都大学再生医科大学瀬原研究室のページ。

使うのは
Image Jという無償配布されているソフトウェア。研究用の画像解析ソフトと言えばいいのかな。あといくつかのプラグイン。これも無償配布のもの。
Image J
http://rsb.info.nih.gov/ij/

画像間の位置補正プラグイン
Turboreg
http://bigwww.epfl.ch/thevenaz/turboreg/
Stackreg
http://bigwww.epfl.ch/thevenaz/stackreg/

深度合成写真のプラグイン
StackFocuser
http://rsb.info.nih.gov/ij/plugins/stack-focuser.html
Extended Depth of Field
http://bigwww.epfl.ch/demo/edf/

やり方は、瀬原研究室さんのページを見て頂くとして。
結果。合成した後、やはり無償のGimp(日本語のページはこちら)で修正したもの。
深度合成したもの。
出来上がりを見て、

  • ゴミがかぶっている部分は、当然ピントがあった画像が得られないので、出来上がりもピンぼけ。==>顕微鏡の掃除
  • 形が悪い。もっとうまく展翅しないと。==>練習
  • もともとの写真をもっと明るく、鮮明に。==>カメラ操作の確認


体全体の毛や皺にピントが合ってていいですよ!
再トライだね

2011年8月23日火曜日

自己研鑽

職場で、ミュージアムトークというものがある。

来て頂いているボランティアさん向けにいろいろお話しすると言うもの。
あちこちの博物館で行われている、学芸員さんが専門的なお話を噛み砕いてお話しするトークライブみたい。

これがうちでは2週に1回、火曜日に開催されている。
職員が持ち回りで担当していて、一人当たり年2回程度まわってくる。

で、これが苦手。
なんかですね、自分に興味のあることを、淡々と話しちゃうんですよね。
で、今回は学名の話をした。
生物の学名をラテン語辞典で調べてみるとどう訳せるのか、というもの。

いままで私が担当した中では、まあ、乗ってくれたほうなんですが。やっぱりのりが悪いですね。
生き物の名前を挙げてもらって、その場で調べるという形にしたんだけど、なんだか間延びした感じ。


原因を考察
<構成が悪い>
興味がわくような掴み、展開ができていない。もうちょっと考えとこうよ。

<段取り>
辞書の数か少ないのに調べてもらうというのは、ちょっと段取り悪すぎ。扱う学名を厳選して、辞書の一部のコピーで全員が調べられるような形にしたら良かったかも。

<展開の手腕>
いずれにせよ、気の利いたジョークや笑かしは下手なのは分かっているので、自分にあった盛り上げ方を考えたほうがよかったかも。もっと展開について策を練るべき。

今思いつくのはこんな感じ。
まあ、すぐ忘れるのでアップしとこう。

腰が痛い、肩が凝るetc

このところ、何だか体がぎくしゃく

ずーっと前から肩こりはひどかったんだけど、最近首にくるようになった。
首を後ろへ倒すと、首の下のほうの骨がずれてたかのように、ゴキッっとなる。
気持ち悪いけど、ならないのも気持ち悪い。

おととい、子どもを抱いていたら腰がピキッときた。
これで今年二回目・・・高校の時、飛び込みを失敗してぎっくり腰になって以来、2年に一回程度だったのが、いつの間には1年に一回になり、とうとう今年は二回。

う〜ん。筋力の衰えかなぁ。運動不足?単に歳?
姿勢が悪い+パソコン作業が多い、というのも一役買ってるかも。

気をつけよ。


2011年8月21日日曜日

感謝する

先日、大体同じくらいの子どもを持つ親の人たちと飲む機会があった。
夫婦で参加している人も多かった。

その中でちょっと驚いたこと。
ある男性が、妻の前で
「自分はたいがいいい加減だったが、こんなに良い嫁さんをもらえるなんて!!妻には感謝している!!」
と言っていたこと。

こんなことを、人前で & 妻の前でどうどうと言えるなんて、と驚いた。
身近な人や環境への感謝をここまで重大事と考え、人前で表明できる人がいることに、単純に驚いた。

自分の妻に感謝してないなんてことはないけど、そんなおおっぴらに人前で言うことは多分ない。それはいいことか、わるいことか。人前で自分への感謝の気持ちを表してもらえるのはうれしいのだろうな。夫婦間の信頼感も強くなるのかも。でも私が言われた場合、そんなことされると恥ずかしくて「いらんこというな!」と思うだろう。だが、それは私の価値観。みんながそういうわけではなかろう。

あと、気づいたことは、自分が感謝の気持ちをそこまで表にだしていないな、ということ。さらには、表にださない==>軽く考える==>あまり意識しない、と連鎖して、感謝という感情にたいする感受性が落ちているのでは、と思った。

「感謝が運を呼ぶ」みたいな変な開運フレーズは信じない。しかし、感謝を表にださない人に対して、人は自分が軽んじられると危惧して近づきたがらない、関係を持ちたがらないだろう。そのことで自分が人間関係から孤立し、「縁や運が逃げる」ということに繋がるのだろう。

では、まずは妻に感謝から・・・

2011年8月17日水曜日

不安をいなす

この週末は忙しかった。

子どもの所属するクラブの合宿に同伴した。
わずか二泊三日とはいえ、やっぱり大変ですね。
子どもは楽しかったみたいですよ。
が、それはおいといて。

合宿では、親もいろいろ考えさせられる。
クラブの指導者は私の親ほどの年齢なので、私の子育ての姿勢にもいろいろと気づくことがあるらしい。夜は大体大人の飲み会的になるのだが、私にとっては子育て講習会みたくなる。

それも、「なるほど、そうしよう!」となれば良いのだが、そうはならない。
なぜなら、tips的な話ではなく、親の価値観そのものが問題とされるから。

その中で気づいたのは、自分が多くの不安の中で生きている、ということ。
他の人は、どうなのだろう。

例えば、夜のバーベキューや花火。
ちゃんと焼けるか、小さい子に気を配れるか、に始まり、火傷しないか、いたずらしないか、事故はないかと心配になる。心配が高じて、子どもたちに注意をしたり、手を出したり、果ては怒ったりする。

それを見て「大丈夫、子どもは何でもできる。この中にいれば死ぬようなことはない。火傷くらい良いじゃない。」とアドバイスが出る。

他の人は不安じゃないのかな?事故は不意に起こるから事故。今まで起きなかったから今後も起きないという保証はない。大人の目が何百あったって、事故は起きるし、人は死ぬ。不安じゃないのか?

長男がまだ小さかった頃、大勢でキャンプに行った。長男は花火を持って走り、つこけて手に火傷を負った。20名近くの大人が周りにいたのに、私以外誰一人火傷に気づかず「こけたくらいで大泣きして、あらあら」と笑っている。そのときはとにかく冷やしたけど、結局後日化膿し、通院。「跡が残ったり指紋がなくなるなどの後遺症が残る可能性があるので、そこは覚悟してください」といわれる。

これは、火傷程度だからよかった。でも、私がたまたま子どものほうを見ていなかったら?、後一杯多くお酒を飲んでいたら?、命に関わるような事故だったら?
私にはたくさんの不安が湧いてくるが、多くの人は「火傷ですんだ。ラッキー」で終わるのか?

その感情が、今の過保護?に繋がっているのか。
不安をいなし、不安とうまくつき合い、子どもをのびのびと育てる。
自分の心理と結びついた部分なだけに、難しいなと感じる。
そうであっても、子どもの成長に関わることだけに改善しないといけないな。

2011年8月4日木曜日

博物館ボランティアの形

ちょっと思案中。


今の職場では、博物資料の整理の一部のお手伝いをボランティアさんにお願いしている。参加してくださる方は、地域のおじさんやおばさんと言った方で、定年退職後の時間をこちらの作業に裂いて頂いている。小さな作業や力仕事なども快く引き受けてくださり、うちの業務としてはとても助かっている。


では、何を思案中なのか。
最近、職場でボランティアの活動についての検討が始まり、私も博物館などの社会教育に関わる場所でのボランティアはどんな形であるべきかな、と考え始めた。


ちょっとネットで調べてみたが、小樽市の小樽市総合博物館のボランティアは良い形ではないのかと思った。
小樽市総合博物館ボランティアのページ。
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/sisetu/museum/museum_volunteer.html


このページに、2011年度のボランティアについての概要.pdfというファイルがおいてあり、概要が書いてあって、大変分かりやすい。


そのなかで同感したのが、Q&Aの項目の一部(以下、強調は私
Q:ボランティア活動に参加する利点は?
A:自分のための生涯学習と自己啓発が最大の利点です。さらに、社会活動に貢献しているという充実感を味わうこともできます。活動を通して多くの方々との出会いがあり、入館者の笑顔に迎えられることもあります。
掃除をしてもらう、標本を台紙に貼ってもらう、登録番号シールを貼ってもらう、そんな作業が「自分のための生涯学習と自己啓発」に繋がっているのか?自分で仕事をお願いしておきながら、疑問を持ち始めたワケ。


ただ、ボランティアさんの中には、「そんな作業が良い」という方が結構多いのも事実。そう言われる方は、「それでお役に立てれば」とも言ってくださる。こちらに多少疑問があっても、参加者が活動の意義を認め、参加の意欲をもてる活動であればそれでいいのかな?


ボランティアさんは、こちらの作業を手伝って頂いているけれども、やはり私どものお客様、社会教育の対象者なのではないか、と思う。だから、ただ「お手伝いして終り」ではなく、ボランティアさん自身がお手伝いの中で何かしら発見して楽しんでほしいし、ボランティアさんがいたおかげでこちらの活動がさらに発展する、という相乗効果をえたいと考えるのはムシがよすぎるだろうか?


ということで思案中。

2011年8月2日火曜日

失敗宣言

子どもが剣道を習っている。


小さなクラブなので週2回程度の稽古であるが、指導者の方は人を見る目が長けていて、子どもたちの心や体の状態にあわせて、いろいろな話をしてくださる。


先日の話の中で「失敗しても良い」というのがあった。今の子どもたちは学校や塾で正解を求められ、間違うことを極端に恐れているそうだ。


話を聞いていて考えた。確かにそんな気がする。わが子についても確かにそうだ。ただ、それは学校のせいではなく、私のせいだろう。私は、失敗が大嫌いだ。大嫌いというより恐ろしい。自分の居場所がなくなる気がする。そんな考えの親が育てた子どもが、失敗を恐れない子になるはずもない。天高く羽ばたいてほしいと名前に「天」の字を入れたが、実際には羽ばたけるように育てただろうか。いろいろ反省。


で、どうするか。まずは自分が失敗を恐れない人間になろう。小さい頃から「失敗しても良い」という言葉は何度も聞いていて、理解して行動してきたつもりだった。しかし、今振り返るとやはり「失敗はイヤ」。つまり何も理解できていない。そこで、これからの行動指針。つまり「失敗宣言」を記しておこう。

失敗宣言:失敗を恐れず行動して、失敗を積み重ね、最後には成功する。

2011年7月31日日曜日

ミョウガ収穫

庭に植えているみょうがを収穫した。
六年くらい前に購入して、引っ越しのときも掘り起こしてつれてきているミョウガ。
肥料もやらずほったらかしているのに、よく花をつけてくれるものです。


この冬は、きちんとお世話しようかな。

2011年7月23日土曜日

日本の捕鯨が生き延びる道は・・・

捕鯨に関する以下の記事を読んだ。


日本の捕鯨が生き延びる道はこれしかない
南極海の調査捕鯨は縮小し、地域捕鯨の復活を
2011.07.20(Wed) 高成田 享
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/15392


「農林水産省が、今年秋ごろから南極海で実施する調査捕鯨について、海上保安庁に巡視船の出動を要請している」ニュースを受けての発信のようだ。


で、気になった部分に一言二言


「反捕鯨国が多い欧米や豪州から見れば、SSは跳ね上がりの環境運動という程度で、海賊とは見なされない。」とあるが、船をぶつけたりするのが「跳ね上がりの環境運動」程度に認識するほうがおかしいのでは。それを理由に巡視船の出動に国際的な正当性の問題があるとは、ちょっと納得しかねるな。


クジラの食文化の現状を上げて、「日本の進むべき道は、はっきりしていると思う。南極海での捕鯨を縮小しながら、地域の食文化に根差した沿岸捕鯨を「持続可能な漁業」にしていくことだ。」という落としどころに落ち着いている。現実、そうかなーとは思う。でも、公海上での捕鯨、さらには漁業の将来的な可能性を手放してしまっているみたいで、なんだか不安を感じる。マグロ、サメ、と次なる課題も取りざたされているのに大丈夫なのかな?







2011年7月22日金曜日

ふれあい参観日

子どもが通う保育園の「ふれあい参観日」なるものに参加してきた。
端的に言えば先生と一緒に保育に参加する、というものだった。


感想としては、時間は午前中一杯とってあり、子どもたちの様子を通してみれたのでよかった。普段話さない子どもの友達ともコミュニケーションがとれたことも良かった。


が、どんなスタンスで参加すれば良いのか迷ってしまった。
普通の保育参観ならば自分の子どもだけを見ていればいいのだろうけど、参加する保護者は少数(多くて3〜4人)。自分の子だけにかまってると親が来ていない子どもたちは寂しいかなぁ、と思う。


そこで、他の子どもたちにも平等に接すると、わが子が「僕のお父さんなのに・・・」と嫉妬する。また、そんな参加の仕方じゃ、参観ではなく学生の実習みたいだな。


まあ、楽しめばいいのかなぁ


そうそう、この行事のことを人に話したら、「保育士の大変さを身にしみて感じてもらい、クレームを減らす作戦では?」といわれた・・・いやそれは、勘ぐりすぎでは?いやいや、そんな気もしてきた・・・


楽しかったからよかったよ。疲れたけど。

2011年7月20日水曜日

熊本県 古代ハス公園に行ってきました

熊本県は山鹿市鹿央町、県立装飾古墳館の横にある古代ハス公園に行ってきました。
有名な大賀ハスほか、20種類ほどの蓮が植えてあるそうです。

まあ、見頃でよかったんですが、個人的な性格なんでしょうかねぇ。こんなところにいくと不満ばかりが募る・・・
これは大賀ハスじゃない。ラベルがなくてわかんなかった。

ハス園の様子。こんな感じ。

睡蓮のコーナーもあり。

あんまり変なこと書くといけないのでちょっと押さえつつ。
  • 狭い:歩く距離がある割に、池等は少ない。単純にわざわざ行ったのに見応えがない、と感じた。
  • 説明(キャプション):壊れたり、キャプションすら見当たらなかったり(実は大賀ハスがどれか分からんかった)。あっても品種名だけ。ちょっと説明がほしい。色、香り、品種の見分けのポイント、豆知識。など。ただ、園内の樹木にいちいち名前プレートがあったのは良かった。
  • ハス園に入るのに直売所を通らないといけない:そもそもその構造はどうなのか。これは好みの問題か。
  • 直売所の品揃えが悪い:これは時間帯が悪いのかもしれない。赤いジャガイモとかあっておもしろかったけど、とかく少なかった。わたし的には直売所の魅力って、値段と量だと思うので、え?この量でこの値段?的なのがうれしい。使い切れるサイズとかどうでも良い(かといって、ジャガイモ10kgとかはいらんけど)
  • 古代ハス公園と県立装飾古墳館、鹿央町物産館は道を挟んでいるので便利が悪かった。せめて駐車場を共通にするとかしたほうがよいのでは。

2011年7月18日月曜日

イノシシと出会った

ちょっと山に登りました。どんな植物があるのかな〜という軽い気持ちで。
イワガネ
カマキリの幼虫
九州脊梁に近いとはいえ標高はそんなにない低い山なので、全体としてアラカシやシリブカガシ、シイの類、タブ等が多い森でした。

で、植物以外に哺乳類に遭遇。

まず、変な鳴き声が聞こえました。キャンキャンともキョンキョンともつかない鳴き声とワンワンという犬のような鳴き声が混ざって聞こえました。シカとそれに対して吠える犬か?とも思いましたが、もしかしたらクリハラリス?
この件は、クリハラリスの防除に携わっている方に報告しました。

さて、この鳴き声を録音しようと息を潜めていたら、出てきましたよイノシシが。わたしがじっとしていたから気づかなかったんでしょうね。ほんの10メートル先ぐらいに、子どもと一緒に出てきて、わたしとびたぁっと目が合いました。その瞬間、親イノシシはこっちに駆け出してきそうな体制をとり、鼻息を荒くして興奮してきました。向こうも驚いたんでしょうね。

わたしはもろにイノシシと対峙したことはなく焦りました。今までは、基本的にわたしが物音立てていて、イノシシはわたしを迂回しているというのが遭遇パターンだったので。
慌てましたよ。持っていた杖代わりの棒であたりをたたいて音を出すと、なんとか逃げて行きました。

このことをツイッターでつぶやくと、「よく観察する」とのリツイートが・・・そうだった。理系出身の人間が、焦って、思いつきで追い払うなんて・・・

次は、観察して、写真とって、メモして・・・で、おいはらう?

2011年7月13日水曜日

Access奮闘中

仕事場でのデータベースソフトは、Microsoft Access 2003 を使用している。

今度、4つの端末で植物標本データを入力することになり、その準備に追われた。

登録番号を重複なく割り振ったり、レコードの変更が競合(っていうのかな)しないようにしたり、やり始めると意外と大変。仕事場独自の書式の「登録番号」を主キーとして扱っているからかもしれない・・・今更仕様の変更は・・・きついなぁ。

ようやくできたと思ったら、使う人が「コンボボックスの選択肢が昇順で並んでない」みたいなことをつぶやいていた。使い勝手は極力考えたんですけどねぇ。

ドロップボックスの値ソース(だったっけ)にクエリを設定している場合、クエリに昇順をかけとけば良いのかな・・・家のパソコンはMacなので、ちょっと試してみる!が難しいんだよね。

2011年7月10日日曜日

飲み会でした

久しぶりの飲み会でした。

いいたいことを話したり、きついことを言われたり、盛りだくさんでとても楽しい時間でした。が、ここ1〜2年、酔い方が変わってきているようでちょっと心配。

飲める量が極端に減っている気がする。というか、酔い方が急激。突然、ゴーンと酔って記憶がなくなる感じ。今回は、家の前でタクシーを降りた時点で記憶かなくなっている。以前はは、「お、ヤバいヤバい」と感じてセーブできてたのに、最近はヤバさを感じる前に酔ってしまっていることが多い。

原因は、年による代謝の低下?精神的ななにか?かなぁ・・・アルコール中毒じゃないよね?

このような酔い方するようになってから、飲み会の後にものすごく気分が落ちるようになった。罪悪感に近いかも。飲み会自体の楽しさとは全く別に、おちこんでしまう。

今まで記憶をなくすとかあんまりなくて、なくすような飲み方は悪い飲み方!と思っていたので、ここ一年くらいの「ヤバさを感じず、セーブできず、あっさり陥落」という酔い方に、戸惑っているのだろう。飲み会は金曜の夜だったのに、まだ引きずってます。


とにかく、外で飲むときは押さえて押さえて、を心がけよう。

2011年7月2日土曜日

調査

2年後に職場でおこなう地域の自然と文化を紹介する展示にそなえて、下調べに行ってきました。

大雨の後でどうなっているのかな、との不安もありましたが。

まあ、ずいぶん植物が泥で汚れていますが、この汚れている位置、わたしの背丈より高いんですけど・・・そんなに水が来たの・・・ちょっと想像できない。怖い。

最近ちょっとアリにはまりかけてます。植物担当なんだけど、ついついアリに目がいく・・・


イシガケチョウがたくさん給水していました。同行していた昆虫担当は、これよりもさっき逃がしたカラスアゲハが気になって仕方がない様子でした。

この日の調査をもとに、どんな構成にすべきか思案中です。
考えるのもまた楽し。

Illustrator & Photoshop 講座を受けてました

ここ一ヶ月ほど、毎週土曜日にIllustrator & Photoshop 講座を受けに行ってた。

「実践編」と銘打ってあったけど、仕事で我流で使っていたので、ついて行けるだろうと高をくくっていたが甘かった。

基本的にツールに対する理解が乏しいので、先生の師事に従うことはできても理解がワンテンポ遅れる。まあ、それでも頑張ったんですが。

あと、気づいたのは、ソフトの使い方うんぬんではなくて、何よりもデザインの感性が必要だなぁということ。これはたくさんのデザインを見るしかないんだろうな。

2011年7月1日金曜日

プールがある日の健康チェック

熊本もようやく梅雨明けが近づいてきた感じ。日中、日が照るとものすごく暑くなり、子どもたちにとってはプールの季節。

そのプールについて、子どもを学校に行かせるようになって知った、ちょっとおどろいたこと。それはプール(つまり水泳の授業)がある日の朝に親が健康チェックをしなければいけないこと。

朝から、
1. 体温を測り(測らせ)、
2. 体調不良(食欲不振、下痢その他)がないかをチェックし
3. それらを用紙に記入して、
4. プールの可・不可欄を書き込んで、
5. 印鑑を押し、
6. 用紙を学校に持って行かせる。

自分が子どもの時、こんなんしてたかなぁ。してなかった気がする。
子どもの時してなかったから、今の子どもにも不要という理論ではなくて、なんだか違うなぁとかんじてしまうのです。

親の感覚としては、「うちの子の健康チェックは親がきちんとしました。水泳の授業を受けさせてください」と言わされているようだ。さらには、「プール中の事故は全部親の責任です。先生方、安心して授業してください」と言われさている気分にもなってくる。

健康チェックっていわば生活習慣ですよね。だから、「プールの日はこれこれを自分でチェックしてきなさい」と指導するのは保健や体育の教育の一環なのではなかろうか。少なくとも親がチェックして印鑑押すような類いのものではないと思う。もちろん生活習慣のことなので、「家庭できちんと確認してください」と要請する、あるいはチェックシートを子どもが書きこみ親がチェックするというかたちで家庭が関与するのは良い形だと思う。

最近の先生は、雑事が増えて本業の「教え育てる」がおろそかになりかねない状況になってきていると聞くし、
親は、以前ほど昔ほど子どもに目が届かなくなったとも聞く。
何かしら、余裕のない生活になってきているのだろうと感じる。

そんな中では、強制的にでも子どもに目を向けたり安全を確保する仕組みが必要なのかもしれない。

2011年6月25日土曜日

ちょっと理解できない

今朝気づいた記事

教員には合否通知せず 校長・教頭選考考査
http://kumanichi.com/news/local/main/20110625002.shtml

組織とか身分(階級?役職?)とかって本当に疎いから何とも分からないことが多いんだけど、なんか???


校長や教頭になるための試験(3次まで)があって、それに通ると候補者名簿に載って、その後人事で校長や教頭になったり(ならなかったり)するそうな。


で、受験者には学校の先生(記事では「現場の教員」)と県教委事務局の指導主事がいて、その対応が違っていたらしい。


現場の教員 指導主事
合否通知なし あり 
名簿登載期限 1年 なし 


単純に、同じ試験(だよね?)を受けて、合否の通知や候補者名簿に記載される期間が違うって何?とものすごく疑問。


教育委員会の説明がいくつか載っていた。
市町村の教育委員会からの指摘として「現場の教員が不合格だとやる気をなくす」って、それって教育指導主事も一緒なのではなかろうか? というか、人間誰しも、不合格を突きつけられたら、程度や期間の差こそあれ、やる気なくすんじゃないでしょうかね。


「名簿搭載者は勉強を続ける必要がなくなり、教育主事の仕事に専念してもらえる」・・・“名簿搭載者は勉強を続ける必要がなくなり、現場の教員の仕事に専念してもらえる”と言い換えても何も齟齬はない気がしますが・・・


指導主事と教員って立場が相当違うのでしょうか?
ちょっと知り合いの先生とかに聞いてみよう。




2011年6月29日 追記
指導主事って現場の先生とはずいぶんと仕事が違うようですね。
さまざまな研修をはじめ「先生の先生」といったお仕事で、いわば教育委員会の幹部候補生といったところ。現場の先生が比較的手が空く夏休みなどに、その「先生の先生」としての仕事が増えて多忙を極めるらしい。


前述の「名簿搭載者は勉強を続ける必要がなくなり、教育主事の仕事に専念してもらえる」というのはこの辺を意識してのことなのでしょうか。


が、結局、同じ試験をして結果や扱いが違う、というのはやはり不公平に感じてしまいますね。

2011年6月24日金曜日

保全へ生息地移転

今朝気づいたニュース

「保全へ生息地移転 県レッドデータ・ハッチョウトンボ 那須烏山」
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20110618/544303
下野新聞2011年6月19日

今回の震災で被害を被った学校給食センターの移転新築に際して、「建設予定地がハッチョウトンボの生息地だったので、捕まえて別のところに放して保全しますよー」ということらしい。

震災に関することなので、なんだか批判しにくいのだけど、そこはおいとく。食い物にもならない虫と子どもの生活、どっちが大事なんだよ!という批判は無しで。まずは保全の仕方について。

で、とりあえず、これは「保全」か?なんだか違和感あるなー。
生物の保全の方法については、生物種一つひとつを個別に守るのではなく、その生き物が生き延びる足場となる環境をワンセットで守るために生育・生息地全体を保全する、というのが最近の考え方だと思っていたのだが、これはいきなり環境から切り離しているなぁ。

ハッチョウトンボは栃木県のレッドデータでは絶滅危惧ではなく要注目種になっている(http://www.pref.tochigi.lg.jp/shizen/sonota/rdb/detail/18/0295.html)ことも、生息地自体を保全する必要はなし、という判断をくだした理由かなぁ。

関わった人のコメントに「かつていたような場所に」、「子どもの教育に役立てられれば」ということも書かれているが、なんだかそれにも違和感。

「かつていたような場所に定着させたい」というのは、保全の方策としてはありと思うけど、かなり最終手段的な方法ではないのか。復活の見通しが立たないとか、元の生息地がすでに壊滅的だとか、飼育・栽培の個体しか残っていないとかいう場合の方法じゃないかな。

「子どもの教育に」って何に役立つのか。「人間がなんかするのに邪魔だったけど、慈悲の心で他に移してあげたよ」と思わせるのは教育的に良いことか?記事の写真には子どもがトンボを捕っている様子が写っているが、子どもは関わらせるべきではなかったのではなかろうか。

話ははじめに戻るが、結局、虫と人の生活どちらが大事かという問題。栃木の被害がどの程度か知らないが(県のホームページ
http://www.pref.tochigi.lg.jp/kinkyu/higaihinan.html
を見てみた。栃木はそこまで壊滅的ではないんだな。よかったよかった)、子どもたちが安心して生活できるよう整備するのは大事なことだと思う。ただ、ここ湿地でしょ?ハッチョウトンボいるし。そんなところに建てるの?地震後大騒ぎしていた液状化とか問題じゃないのかな。

思うのは、これが保全のモデルケースにならないで欲しいということ。震災を前にして緊急避難的に行われたものである、という認識が必要だと思う。

2011年6月15日水曜日

親の「自分の時間」

先日、地元の新聞の読者投稿欄に、子どもを保育園に預ける時間について投稿があった。

記事の内容はそんなに覚えていないけど、「早く迎えにきて子どもと接する時間を作って」という意見と、それに対して「親に余裕がないと子どもに接する時に無理が生じる」みたいな意見だった、と思う。

前者の意見は、就学前児童にとって適切な集団行動の時間が6時間(いや4時間だったか?)であることをふまえての、子どものことを重視した意見だろう。一方、後者は、子どもを取り巻く環境のひとつとしての親を良い状態におき、良い生活環境を維持しようという意見なのかな。ネグレクトとか問題になってるし。

それを読んで、二年ほど前に同じようなことを息子の保育園の先生にいわれたことを思い出した。そのときはカチンと来たので、自分は後者の意見だ。

他の人がどういう子育てをしているか知らないが、うちでは、
・起きてすぐバタバタと準備、出発
・子どもを保育園に預けて出勤
・勤務が終わると同時に仕事場を飛び出す。
・途中寄り道もせず車の間を縫うように飛ばしてお迎えに行く。
・夕食、風呂、家事、寝る
という感じ。土日も基本的に子どもとともに子どものために生活するので、基本的に親の「自分の時間」はない。

だから、たまに入る平日の休みが実は楽しみ。何もせずに家でボーッとしていることもあれば、以前からしたかったことに手を付けたり。そこでリフレッシュしてまた頑張る訳だ。

人によっては、「親なんだから、そのぐらい当たり前」という考えで、上記のような生活に疲れを感じない人もいるだろう。ま、それは個人の価値観によるもので、一概におしつけらんないでしょう?

「もっと生活を見直して上手に生活をおくれる環境を作るべき」というひともいるかな。ごもっとも。でも、自分も含め、みんなそれぞれ頑張って、工夫してるんだと思う。とてもいい方法があるのならぜひとも情報発信してほしい。

今思うと、保育園の先生からは「休みの日に子どもをほっぽらかしてあそぶ親」にうつっていたのかな。

んじゃ、今日も頑張ろう。

対日世論調査で捕鯨を聞いたそうな

オーストリア 82%が日本の捕鯨に「反対」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110613-00000007-scn-int

まず、なんでオーストリア?
最初はオーストラリアと読み間違えて、「わざわざ反捕鯨国で反対意見しか出ないような質問するなよ」と思ったんだけど、オーストリア?捕鯨がらみでなんかあったっけ?

ちょっとググってみたら、日本捕鯨協会の
IWC条約を愚弄する輩
http://www.whaling.jp/yakara/yakara02.html
というページで「いかなる条件の下においても、捕鯨は認めない」国としてイタリアとともにあげられている。ガチガチの反捕鯨国だったんだな。


で、記事には反対理由とパーセントが出ている。
反対理由は「クジラが絶滅危惧種」、「違法だから」という認識不足と言うか事実誤認が目立つなあ。「捕鯨は必要ないから」は、余計なお世話だなぁ。あとにもどっかで聞いたような文言が並ぶ。


82%という数字もすごい。ここまで偏ることがあるのか。国民総出で反対なんだな。この状態はどうやってできたんだろう。活動家や政治家、メディアの地道な活動の成果なのだろうか、ここまで偏らせるって相当な気がする。むしろ怖いかも。


以上、感想。

2011年6月12日日曜日

キノコを採りに行ってきた

せっかくブログ作ったのにろくに上げないし・・・

先週の日曜日にきのこ採りにいってきた。

ま、食べるためではなくお勉強。地元のキノコの愛好会「熊本きのこ会」の例会に参加です。普段は植物か動物を見ているので、キノコを探すとなるとまた違う目がいる感じ。結構疲れた。

でも、驚いたのは、開催時間を通して会員のみなさんの学習意欲が高い状態で続いていること。午前中に各自採集し、お昼には帰着して昼食、その後採集して持ち寄ったキノコの同定会と学習会、という構成が、体力的に負担がなく集中力が持続している要因かも。また、昼過ぎには終わるので帰宅後に観察会の復習をしたり、標本を作ったりという知識を消化する時間が取れる。夕方早いので、時間的に別の要件を片付けることも出来るので、精神的な余裕がある。

そう思うのも、今まで参加した植物の観察会は一日かけて歩き回るもので、学習会は昼食後という構成で、標本作成や図鑑を調べるのは帰宅後になり、時間も体力も余裕がないと感じるためである。

「本当に好きなら・・・」などという理想論はおいといて、社会教育や生涯教育の一環、または自然科学の裾野をより広げる活動としての自然観察会を考えた場合、多くの人にとって参加や取り組みがしやすい構成にすることは必要だな、と感じた。

2011年5月29日日曜日

NHKスペシャル「クジラと生きる」

ブログ開始一発目がこんな話題でいいのか?
というのも、ブログ名の通りあてどなくフワフワ漂うようなブログにしたいという思惑があったからだが。


先日、NHKで捕鯨に関する番組があった。再放送分を録画してみた。
NHKスペシャル「クジラと生きる」
2011年5月22日(日) 午後9時00分~9時49分
2011年5月25日(水) 午前0時15分〜1時04分(再)


内容はNHKでもブログでもホームページでも紹介されているようなので、ここでは番組の感想程度に書いておこう。


このところ、(自称?)環境保護団体のシーシェパードによる調査捕鯨の妨害や映画The coveといった話題が上っていたので、環境保護団体の抗議ってどんなもんか知りたいな、という気持ちで見た。
が、まー衝撃でしたよ。
番組の構成や方針で映像的にいい(=ショッキングとか、見栄えがするとか)部分を集めてあるのだろうとは思うけど、これは抗議活動じゃないな、というのが正直な感想。


いろいろ衝撃的な部分はあったけど、一番気になったのは、捕鯨従事者にたいしてKiller!(人殺し!)やShine!(片言で覚えた「死ね」?)等という言葉を吐きかける場面。


直接的な犯罪の被害者・加害者という関係でもないのに(そういう関係でも良くはないのだろうが)、他人に対してそんな言葉を吐きかけるのは、そもそも人道的にどうなんだ?


「人道的な配慮をしてやる必要もないほど悪人なんだ!」とレッテルを貼りたいのだろうな。でも、こんな態度をとって気持ち悪くないのかな?使命感に燃えてる?達成感に高揚してる?こんな感じで、相手も同じ人間と思うといろいろ疑問がわいてくる訳だ。だけど、もしかしたら相手は捕鯨従事者を対等な人間として見ていないのかもしれない。それならば、このような態度を恥ずかしいとか感じずに、むしろ誇りに思うのかもしれないな、とおもった。(もしくは単純に仕事=金?)


相手を説得するのではなく、実質的に捕鯨を「させない」ことが目的なので、こんなことになるのだろう。



まあ、見ていて「こんな抗議はつらいな」というのが正直な感想。お互いの働きかけ合いの中で着地点を探ろうという姿勢が全くない(そう思わせて譲歩させる作戦かも知らんが)。こういう相手にはやはり「耐える」しかないのかもしれない。番組に出てきた「耐えなあかん」という言葉と態度に対して、何か手助けできないかと感じた。


番組としては、日本における捕鯨の全体像(歴史や文化、現状など)をその中での沿岸捕鯨の位置づけ等を解説してほしかった。「こんな抗議してますよ〜」的な番組に近かった気がする。


取り合えずはクジラを買おう。